「ブルーの本」をどう読むか(6)             ホームページ

はじめに

今号もブルーの本をどう読むか、前号では第4章「転移」の書き出しの部分について、「総論」とも序論とも、どちらとも言えるのではないかと言いながら、その序論の大半の部分(ブルーの本)のトピックセンテンスと支持文を見てきた。今号ではトピックセンテンスと支持文の関係をもう少し詳細に見て行くようにしようと思う。前号のトピックセンテンスと支持文の関係について少々加筆したものを差替え紙面として同封している。

そのうえで今号にその続きを書くことにする。

前号のつづきから始める

前号の終わりの部分では、「ここで転移についてワークする際の「膨大な方法論的・臨床的影響」について注意を向けよう」と言うのがこれ以降のパラグラフのトピックセンテンスだと思える。そして、次の文「私たちが転移を定義し同定することが重要だと考えている理由は、に続く。そして、「その現象を、セラピストが患者の無意識的な諸側面について発見し、まさに患者が自身について発見するための媒体と見ているからだ。」となる。こう見ると、こちらの方がトピックセンテンスなのかもしれないと思う。

ただここの文章をどう読んだかと言うことにも関係する。たとえば、こう読んだとしたらと仮定すると。

「転移についてワークする際の膨大な方法論・臨床的影響」と言うのは、転移を用いてワークするのか、ワークする際に観察される転移を活かして使うというのか、ここの読みに迷う。そして、「転移を定義し同定することが重要だと考えている理由は、」とあるのは、転移の定義とその同定を臨床における膨大な方法論において観察される転移の範囲を指しているのではないかと思える。もしそうだとすると、「ここで、転移についてワークする際の・・・」の文は、この文のかたまり(パラグラフの導入)の文であったようだ。だとすると、これ以降のパラグラフは、転移の序論の冒頭のところ、つまり「本章では転移関係に焦点を当てることによって・・・・・・」に繫がるものだということができる。それは、前号で出てきた「誰かと関係を持つということは、・・・歴史の中の何かをその「他者」に転移・・・・・」という文で始まるパラグラフと同格の重要なパラグラフだと言えそうだ。

そこで「転移を定義し同定することが重要だと考えている理由について」だが、「その現象をセラピストが患者の無意識的な諸側面について発見し、」とつながっているところから見ると、それは幼児期(自己のレベル)における無意識的感覚の時期に起源を持つ転移の範囲において、と例えば規定するとこの前後の文章を一貫して読み取ることができる。もっというと、例えば自己のレベルに起源を持つ転移においての観察でセラピストは患者の自己のレベルの転移を発見することであるし、また、そのときの現象に気付いていない患者が治療者に言葉にならない体験を表出して伝えている。そのことの結果が患者自身それを知ることになる、と言う意味と解釈すると良さそう、転移(逆転移も含まれるのかも)がそのときの「媒体」だというのだろうと解すると良いのかも。次の文を見ると。重要だと考えている理由は、(のところから)その現象を、セラピストが患者の無意識的な諸側面について発見し、まさに患者が自身について発見するための媒体と見ているからだ。とある文脈でそれが窺える。更に続くことでも、

ことに私たちはこの過程を患者が気づいていない、言葉にならない体験を伝えようとする試みと見ている。そして次の文は、更に加筆していると見る。

言葉にならない体験について言語的自己感(Stern1985)では、叙述する言語が見つからないとき、あるいは私たちが自己モデル(33頁、図2,4)で描いたように、言語的自己が何も知らず体験の内的諸側面から切り離されているときは、自己のそれらの側面は、直接的な言語ではなく媒介物を通してしか知りようがない。とある。(この文中「切り離されているときは、の「は」は「は」の重複である。

言葉にならない体験を言語的自己は叙述できない、あるいは何も知らない。内的側面から切り離されていると、直接的言語ではなく媒介物を通してしか知りようがない。と言っているのも加筆してのものと解することができる。

この一連(幾つかの文)が、ここで転移についてワークする際の膨大な方法論的・臨床的影響」に注意を向けよう。の後の文、「私たちが転移を定義し、同定することが重要だと考えている理由は」にかかっている(捕捉して増強している)。

ここで捕捉しておくのだが、左の段落の下の方で、「それは、幼児期(自己のレベル)における無意識的感覚の時期に起源を持つ転移の範囲において、と例えば規定するとこの前後の文章を一貫して読み取ることができる。もっというと、例えば自己のレベルに起源を持つ転移においての観察でセラピストは患者の自己のレベルの転移を発見することであるし、また、そのときの現象に気付いていない患者が治療者に言葉にならない体験を表出して伝えているのだ」と例えた自己のレベルよりも広範に同様の転移形式のもののことをいっているものだとわかる。つまり、自己の時期に拘らず、他の同形式の転移においてそれが言えることだというのであろう。

書籍の文に戻る

自己の他の面は患者の融和した自己感(「A0」)を脅かすものとして体験されることが多いが、私たちはFreud以降多くの人々から(そして実際私たちは自身の臨床的観察から)、抑圧されているものは別の方法で出てくるということを学んできた。

ここのところは抑圧されたものは形を変えて出てくる、と言うことを、上の文と同様、重ねて言っていると思える。そして次の文で、「例えば」と言う書きだしで更に上乗せして例を挙げて説明に奔走している。

例えば私たちは、抑圧された体験は身体を通し、行動を通し、そして治療者がいる前で表現された期待、感情、思考を通して露わになることを見てきている。ただし、私たちが観察を理解し用いる方法は、もちろんFreudのものとはかなり違っている。とりわけ逆転移へのワークのし方についてはそうである。とこの文脈のパラグラフを閉じようとしている。そして、このパラグラフの結論文として、一言、「逆転移へのワークのし方において」と閉じている。

次のパラグラフ、新たなはじまりを読んでみる。

「感情と情動は非言語的転移関係の理解の中心となるものであり、したがって治療に必須の構成要素である。」と言うのがトピックセンテンスであるようだ。「情動だけを切り分けて外してしまうことは問題であることが、神経学によって明確に証明されている。というところは、「情動を切り分けて外してしまうことの問題は神経学的に証明されていることである。と変えていいように思う。

うまく的を絞られ、うまく使われた情動はそれなしには理性の複雑な組織が適切にはたらかないようなサポートシステムのようだ」と続くところを次のようにしてみたい。そして、(でつないで、)的が絞られない、あるいは、うまく使われることもないと組織はうまくはたらかない。つまり理性のサポートシステムも情動なしで複雑な組織がうまく働らくことない。」と意味であろう。

本文に戻ると

これから示唆されるのは、感情と情動は切り離せないと言うことであり、さらに言えば、感情と推論は切っても切り離せないと言うことであろう。」とある。ここは次のように読んでみた。

これらから情動と感情が切り離せないばかりか、感情と推論も切り離せないと言うことである。

そして本文に戻ると

それゆえ、治療者が情動的に機能できることが最も重要であり、このモデルにおいて転移関係を効果的に理解するのに必須であるとの示唆は筋の通ったものと思われる。とある。ここを変えてみると。

それは、治療において情動的に機能することが重要であり、それは、転移関係を効果的に理解することにある、と考える。としてみた。

そして次の文章につながるのである。

治療者が感情と体験を「捕まえる」感受性は、それゆえきわめて重要なものである。Bollasは事由に生じる情動に対する感性を磨くことについて次のように言っている。分析者は自身の直観、感情、脳裏をかすめるイメージ、ファンタジーが伝える「知らせ」を大切にしなければならない。つまり「患者」を見つけるために私たちは、自分の中に患者を探さなければならない。」このためには、治療者は自分の「自己」の内に古くから持っている苦手な部分を再び訪ね、あまんじて衝撃を受けなければならない。Bollasは、分析的なエンカウンターを体験した二人の患者の例を紹介している。かようにして私たちは、患者からのコミュニケーションを理解すると言う役目にあって、自分自身の言葉にならない心の熱望が打ち鳴らす拍動を、認め、識別し、聞くことこそ、サイコセラピストの責任であると考える。

転移と逆転移が片方だけで存在することは現実的にはありえない。このため、逆転移から切り離して転移について書くことは難しい。私たちの見るところ、それらは相互依存的であり、その理解が欠けていると治療が中断してしまうこともある。もし患者が自身の「C」の体験を転移できなかったならば、直感的に、この治療関係は自分にとってたいしたものではないと思って諦めてしまうかもしれない。転移はその中に変容の可能性を秘めているのである。というのは、もしセラピストが転移を引き受ければ、患者は変化するためにそれを使うことができるからである。

こうした考えについては逆転移についての第5章でもっとくわしく検討する。ここででは単独では成立不可能としたはずの転移現象を、単独で吟味することを試みよう。と締めくくっている。

この部分を以下のように変えたらどうでしょう。

転移と逆転移の片方だけが存在するということは現実的にはありえない。つまり、転移を逆転移から切り離して考えることは難しいことである。転移と逆転移は相互に依存的であり、片方だけの理解では治療が中断してしまうこともある。もし患者が自身の「C」の体験を転移できなかったなら自分にとって大した治療ではないと思ってしまうかもしれない。とあり、結論文として「転移と言うのは、セラピストがそれを引き受けることによって、患者が変化するためにそれを使うことができるからである。つまり、転移とはうちに変容の可能性を秘めているのである。と変えてみた。

この結論文が最初の導入文のトピックセンテンスと呼応して全体のまとまりを成している。

そして次の「退行」という節に移っていく。この退行は、まだ転移の各論の前段の論説である、とも言え、更に、次の「共感と転移」も含めて、序論ではなく、これが総論であると考えることができる。そして転移の各論に入って行くと言えるだろう。

[参考]文章のかたまりで最も重要な文はどれか、主体的意味を表わしている中心文(トピックセンテンス)はどれか、その中心文を補う支持文があり、説明文や例示、引用などの捕捉があってトピックセンテンスを際立たせている。それらの文章のまとまりがパラグラフである。まとまりとつながりによってパラグラフを成している。更にパラグラフとパラグラフにつながりがある。(瀬尾功)

 

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